【華城連続殺人事件】33年後にDNAが暴いた真犯人と、20年を奪われた男――韓国最大の未解決事件の心理プロファイリング

はじめに:映画『殺人の追憶』のその後

1986年から1991年にかけて、韓国・京畿道(キョンギド)華城(ファソン、Hwaseong)郡の農村地帯で、女性たちが次々と殺害されました。犠牲者は10人。警察は延べ約200万人の人員を投入し、2万人を超える人物を調べましたが、犯人は見つからず、2006年までにすべての事件の公訴時効が成立しました。この事件は、2003年のポン・ジュノ(Bong Joon-ho)監督の映画『殺人の追憶』の題材の一つとなったことで、日本でも広く知られています。

ところが2019年9月、韓国警察は、保管されていた証拠から採取したDNAが、別の殺人事件で服役中の男イ・チュンジェ(Lee Choon-jae/Lee Chun-jae)と一致したと発表しました。イは10件すべてを含む14件の殺人を自白します。そして、この自白によって、10件のうち8件目の事件で犯人として無期懲役となり、約20年服役したユン・ソンヨ(Yoon Sung-yeo)が、無実だったことが明らかになりました。

本記事では、事件の経緯と捜査の問題点を整理し、なぜ犯人は長く捜査の網をくぐり抜け、なぜ無実の人が「自白」したのかを、犯罪心理学の観点から考えます。なお、事件の多くは性犯罪を伴うものだったため、本記事では被害者の名前を記さず、被害の詳細な描写も控えます。

1. 事件発生の経緯とタイムライン

■ 1986年9月:農村地帯で始まった連続事件

事件の舞台となった華城郡(現在の華城市)は、ソウルの南に位置する農村地帯でした。水田や畑が広がり、夜になると街灯の少ない道が続く地域です。

最初の事件は1986年9月に起きました。資料によると、9月13日に70代の女性が行方不明になり、19日に遺体で見つかっています。翌10月には20代の女性、12月にも20代の女性が犠牲になりました。12月の事件の被害者は、翌1987年4月になって遺体が発見されています。

被害者の多くは、夕方から夜にかけて、一人で道を歩いているところを襲われたとみられています。年齢は10代から70代までと幅広く、共通する人間関係も見当たりませんでした。被害者の衣類が犯行に使われていた事件が複数あり、警察はこれを同一犯の特徴の一つと見ていました。

■ 1987〜1988年:続く犯行と広がる恐怖

事件はその後も続き、1987年には複数の事件が起きました。地域では「雨の夜に赤い服を着ていると狙われる」といった噂が広がり、女性たちは夜の外出を控えるようになったと伝えられています。

1987年5月の6件目の事件のあと、警察は捜査対象の一人として、地元に住む20代前半の青年イ・チュンジェからも事情を聴いています。しかし、このときイは容疑者から外されました。

1988年9月16日、華城郡泰安邑(テアンウプ)の民家で、当時13歳(資料により14歳)の少女が自室で殺害されました。これが「8件目」とされる事件です。この事件は、屋外ではなく住宅の中で起きた点などが他の事件と異なっていたため、模倣犯の可能性が指摘されました。

■ 1989年7月:「8件目の犯人」の逮捕

1989年7月27日、警察は8件目の事件の容疑者として、華城で農機具の修理工として働いていた22歳のユン・ソンヨを逮捕しました。現場で採取された体毛と、ユンの体毛の成分が一致するという鑑定結果が根拠の一つとされました。ユンは取り調べで犯行を「自白」します。

しかし、ユンは裁判で無罪を主張し、捜査官に自白を強要されたと訴えました。その訴えは退けられ、1989年10月、水原(スウォン)地方法院は無期懲役を言い渡し、1990年5月に大法院(最高裁判所)で確定しました。

同じ1989年7月には、華城で小学生の少女が行方不明になる事件も起きていました。この事件は当時「失踪」として扱われましたが、のちにイ・チュンジェが殺害を自白しています。

■ 1990〜1991年:最後の事件と沈黙

8件目のあとも事件は続き、1990年11月に9件目、1991年4月3日の午後9時ごろに10件目の事件が起きました。10件目の被害者は60代の女性でした。これを最後に、華城での連続事件は止まります。

その後、犯人は捕まらないまま年月が流れ、最後の事件から15年後の2006年4月、すべての事件の公訴時効が成立しました。

主な出来事の年表

  • 1986年9月|1件目の事件。70代女性が犠牲に
  • 1986年10月・12月|20代の女性2人が相次いで犠牲に
  • 1987年5月|6件目の事件のあと、警察がイ・チュンジェから事情を聴くが容疑者から外す
  • 1988年9月16日|8件目の事件。13歳の少女が自宅で殺害される
  • 1989年7月27日|ユン・ソンヨを8件目の容疑で逮捕
  • 1989年10月|ユンに無期懲役判決(1990年5月に確定)
  • 1991年4月3日|10件目の事件。以後、華城での事件は止まる
  • 1994年1月|イ・チュンジェが義理の妹を殺害。のちに無期懲役が確定
  • 2003年|映画『殺人の追憶』公開
  • 2006年4月|すべての事件の公訴時効が成立
  • 2009年|ユンが仮釈放される
  • 2019年9月|警察がDNA鑑定でイを特定したと発表
  • 2019年10月2日|イが14件の殺人を自白
  • 2020年12月17日|再審でユンに無罪判決

2. 捜査の経緯と犯人特定

■ 史上最大規模の捜査と、見逃された男

報道や資料によると、華城事件の捜査に投入された警察の人員は延べ約200万人、調べられた人物は2万1280人、指紋を採取された人は4万116人に上りました。当時の韓国の捜査としては、例のない規模です。

それでも犯人にはたどり着けませんでした。2020年に警察が公表した再捜査の結果によると、イ・チュンジェは当時、少なくとも3回、捜査の対象として事情を聴かれています。1987年5月の6件目の事件のあと、1988年の8件目の事件の際(このときは体毛の鑑定で除外)、そして1989年7月の小学生失踪事件について1990年1月ごろに聴かれた際には、靴のサイズが現場の足跡と合わないことを理由に除外されました。

イは2020年の再審公判で、「なぜ当時、自分が容疑者にならなかったのか分からない」と述べ、被害者の一人の腕時計を持っていたときに事情を聴かれたことさえあったと証言しています。

■ 強要された自白と捏造された証拠

一方で、ユン・ソンヨの逮捕と有罪判決の過程には、深刻な問題がありました。再捜査の結果、警察は、捜査官が暴行や過酷な扱いによって虚偽の自白を引き出し、虚偽の供述書を書かせ、公文書を捏造していたことを認めました。ユンは、手錠をかけられたまま3日間部屋に閉じ込められ、眠らせてもらえず、ほとんど食事もとれなかったと証言しています。

有罪の根拠とされた体毛の鑑定書についても、のちに検察が、内容が不正に作成されていたと判断しました。2019年12月には、当時の捜査官ら8人が職権乱用や不法監禁、公文書の虚偽作成などの容疑で立件されましたが、時効が成立していたため、起訴には至っていません。

さらに、1989年の小学生失踪事件では、当時の警察が被害者の遺品や遺骨の一部を発見していながら、それを隠し、遺族にも知らせていなかった疑いが明らかになり、当時の刑事課長ら2人が証拠隠滅などの容疑で立件されました。捜査の過程で厳しい取り調べを受けた人の中には、その後に自ら命を絶った人もいたと報じられています。

■ 2019年、DNAがつないだ33年

転機は、科学技術の進歩でした。警察は保管していた証拠物を国立科学捜査研究院で再鑑定し、被害者の衣類から検出されたDNAが、受刑者のDNAデータベースに登録されていたイ・チュンジェのものと一致したことを突き止めました。その後、さらに4件の事件の証拠からもイのDNAが見つかっています。

イは1994年1月、義理の妹を殺害した事件で逮捕され、一審では死刑、1995年に大法院で無期懲役が確定し、釜山の刑務所で服役していました。警察が刑務所で面会を重ねると、イは2019年10月2日、華城の10件を含む14件の殺人と、30件を超える性的暴行・未遂を自白しました。警察は2020年7月、14件の殺人と9件の性的暴行をイの犯行と結論づけました。

3. 犯罪心理学プロファイリング

ここからは、確認されている行動と本人の供述をもとに、イ・チュンジェの犯行と、捜査の失敗の背景にある心理を考えます。イは時効のため華城事件で裁かれておらず、供述の一部は検証が難しいことを前提とします。

■ 「土地勘」と犯行圏――地理的プロファイリング

地理的プロファイリングとは、犯行地点の分布から、犯人の生活の拠点を推定する考え方です。カナダの研究者キム・ロスモ(Kim Rossmo)らが体系化したもので、多くの連続犯は自宅周辺の「なじみのある範囲」で犯行に及び、かつ自宅のすぐ近くは避ける傾向がある、とされます。

イ・チュンジェは1963年に華城で生まれ、陸軍を除隊した1986年1月以降も地元で暮らしていました。最初の事件が起きたのは、その同じ年の9月です。犯行現場は、イが日常的に行き来していた地域に集中していました。街灯の少ない農道や、人通りの途絶える時間帯を知り尽くしていたことが、目撃者の少なさにつながったと考えられます。

一方で、当時の韓国にはこうした分析の手法がほとんど導入されていませんでした。もし犯行地点の分布を体系的に分析していれば、地元に住む若い男性という絞り込みはより早くできたかもしれません。ただし、これは結果を知った後から見た評価であり、当時の情報量で同じ結論に至れたかは分かりません。

■ 衝動性と「中断」――1991年に事件が止まった理由

イは法廷で、犯行について「衝動的に行動しただけだ」と述べ、罪悪感はその都度、短い間しか続かなかったと語っています。

連続殺人の研究では、犯行の間隔が空く「冷却期間」が見られることがあります。また、連続犯の犯行が突然止まる理由として、転居、結婚などの生活環境の変化、逮捕・収監などが挙げられます。イの場合、1991年4月の10件目のあと、華城での事件は止まり、1992年4月に結婚して地域を離れ、清州(チョンジュ)に移ったと報じられています。イが自白した14件には、清州で起きた2件が含まれています。

ここから考えられるのは、事件が「止まった」のではなく、「場所が変わった」可能性です。華城の事件が終わったように見えたのは、犯人が生活の拠点を移したからだったのかもしれません。ただし、本人の「衝動的だった」という説明は、自分の行為を小さく見せる自己正当化である可能性もあり、そのまま受け取ることはできません。

■ 誤った自白――取り調べが生む「内面化」

ユン・ソンヨの事件を理解するうえで欠かせないのが、「虚偽自白」の心理学です。

心理学者ソール・カシン(Saul Kassin)らの研究では、虚偽自白は大きく三つに分けられます。注目を得たい、誰かをかばいたいなどの理由で自ら申し出る「自発型」、取り調べの苦痛から逃れるために、やっていないと分かっていながら認めてしまう「強制・追従型」、そして長時間の取り調べの中で、自分が本当にやったのかもしれないと思い込んでしまう「強制・内面化型」です。

ユンは、眠らせてもらえず、食事もほとんど与えられないまま、何日も拘束されたと証言しています。睡眠不足と孤立は、判断力を大きく損ないます。「認めれば終わる」という短期的な見通しが、「無実なのだから裁判で分かってもらえる」という長期的な判断を上回ってしまうことは、強制・追従型の典型と考えられます。

ただし、自白の詳細な心理過程は本人の内面に関わるものであり、外から完全に分類することはできません。重要なのは、強い圧力の下での自白は、無実の人からも引き出され得るという事実です。

■ 集団的確証バイアスと「成果への圧力」

なぜ捜査官たちは、暴行や証拠の捏造にまで手を染めたのでしょうか。

一つの手がかりは「集団思考(groupthink)」です。心理学者アーヴィング・ジャニス(Irving Janis)が提唱した概念で、結束の強い集団が強い外圧の下にあるとき、異論が抑え込まれ、誤った判断が集団として下されやすくなる現象を指します。

国中が注目し、何年も犯人を挙げられない中で、捜査本部には大きな圧力がかかっていたと考えられます。8件目が模倣犯だとする見立ては、「少なくとも1件は解決できる」という期待と結びつき、それに合う証拠だけが重視されていった可能性があります。小学生失踪事件で遺品を隠したとされる行為も、「未解決の殺人事件を増やしたくない」という組織の論理が働いた結果だったのかもしれません。もちろん、個々の捜査官の動機は一様ではなく、組織の圧力だけで責任が消えるわけではありません。

4. 事件の背景と社会への影響

■ 当時の社会状況:軍事政権下の捜査と農村

事件が起きた1986〜1991年の韓国は、大きな変動の時代にありました。1987年に民主化宣言が出され、1988年にはソウル五輪が開かれます。しかし、警察の捜査では、自白を重視し、取り調べの過程での暴行や長時間の拘束が問題になることが少なくありませんでした。

また、当時はDNA鑑定がまだ実用化の初期段階にあり、韓国の警察には科学捜査の体制も十分ではありませんでした。華城のような農村部では、防犯カメラはもちろん街灯も少なく、目撃証言と取り調べに頼る捜査にならざるを得なかったといえます。

韓国の公訴時効は、当時、殺人罪で15年でした。2007年に25年に延長され、2015年には殺人罪の時効が廃止されましたが、法改正は過去の事件にさかのぼって適用されないため、華城の事件は時効のままとなっています。

■ 事件が社会・法律・報道に与えた影響

華城事件の失敗は、韓国の科学捜査と犯罪分析への投資を後押ししたとされています。2000年代以降、韓国警察はプロファイラー(犯罪分析官)の育成を進め、DNAデータベースの整備も進みました。報道によると、2021年時点で韓国警察の殺人事件の検挙率は96.7%に達しています。

2019年の真犯人の特定は、未解決事件の証拠を長期間保管しておくことの重要性を示しました。また、ユンの冤罪が明らかになったことで、強制的な取り調べがもたらす被害に改めて社会の関心が集まりました。韓国警察は、事件名から地名を外し、「イ・チュンジェ連続殺人事件」と呼ぶようになったとも伝えられています。長年「殺人事件の町」と呼ばれてきた地域の住民への配慮といえるでしょう。

5. 司法の判断と現代への教訓

■ 判決・現在の状況

イ・チュンジェは、華城の事件については時効が成立しているため、起訴されていません。義理の妹を殺害した1994年の事件による無期懲役で、現在も服役を続けています。イは2020年11月2日、ユンの再審公判に証人として出廷し、犯行を改めて認め、「無実の罪を着せられたユンさんに心から謝罪する」と述べました。

2020年12月17日、水原地方法院はユン・ソンヨに無罪を言い渡しました。裁判長は判決の中で、司法が「人権の最後の砦」としての役割を果たせず、大きな苦痛を与えたことについて謝罪しました。京畿南部警察庁長も、警察が暴行によって虚偽の自白を強要したことを認め、謝罪しています。ユンは判決後、自分のような思いをする人が二度と出ないよう、すべての事件で公正な裁判が行われることを願うと語りました。

韓国では、刑事補償制度により、無罪が確定した人は拘禁された期間に応じた補償を国に請求できます。ユンは約20年の服役と、その後の長い年月を奪われました。

■ 現代社会への教訓

  • 証拠は時を超えて真実を語る:30年以上前の証拠が保管されていたからこそ、真犯人の特定と冤罪の解明が可能になりました。未解決事件の証拠保全の重要性を示しています。
  • 自白は「最も強い証拠」ではない:強い圧力の下での自白は、無実の人からも引き出され得ます。取り調べの録画や弁護人の立ち会いなど、自白の任意性を確かめる仕組みが欠かせません。
  • 組織の圧力が個人の判断をゆがめる:成果を急ぐ組織の中で、異論を言える仕組みを持つことが、誤った捜査を止める手がかりになります。

まとめ

華城連続殺人事件は、一人の男による連続犯罪であると同時に、捜査の失敗が新たな被害を生んだ事件でした。犯人は地元の土地勘を生かして捜査の網をくぐり抜け、少なくとも3回、警察の目の前を通り過ぎました。その一方で、無実の青年は強制された自白によって約20年を刑務所で過ごしました。

33年後にDNAが真実を明らかにしたことは、科学の進歩の成果です。しかし、遺族と、冤罪によって人生を奪われた人にとって、その時間は戻りません。この事件は、犯人を探す側が「正しさ」を失ったとき、何が起きるのかを私たちに問いかけています。

【動画でさらに詳しく解説】 本事件の詳細は、YouTubeチャンネル『CRIMINALNIGHT』にて解説しています。ぜひあわせてご覧ください。